水に身を委ねて漂い耳をすませては遠くの漣を聞く


「たまごまごごはん - さあ裸でぶつかりあおうか」を読んで。


「ありがとう」も「すごい」も確かに其処止まりの言葉だが。私がmakaronisan氏のこの記事を読んで感じた感想は一言「微笑ましい」だった。これも其処止まりで広がりの無い言葉だと言えなくも無い。だがしかし、「ありがとう」も「すごい」も「微笑ましい」も広がりやコミュニケーションを持たせようと思ったらどうとでも後戯が出来ない訳ではない…と、直ぐ其方に話を持っていこうとする私は立派にその手の仲間に入れられてしまうのだろうな。不本意ではあるが。(笑)


 確かに「書いた文章=自分の人格」ではないですよね。ほら、次の日の朝起きて文章読んだら猛烈に削除したくなることってあるじゃないですか。


私には削除したいと思う文章は無い。他にも色々と書いている私ではあるが、その全てを私は恥ずかしいなど思った事も無い。だから、全て私にとって自身が書いた文章は私の人格そのものである。私は己を恥ずかしい人間だと思った事は無いからな。だが勿論、私が恥ずかしくないと思っていも、他人は私を恥ずかしい人間であると思っている者は多いだろうとは推察出来る。


昔、好きな相手にラブレターを書いた事があるが、翌朝になって読み返してみて「これは一体誰が書いたのだ」となったものだった。だが、恥ずかしいよりも先に自分の中にこのような文章を書く私が居るのだと知った衝撃の方が大きかった。それは恥ずかしいという気持ちではなく、一種の感動にも似たような気持ちだった。自分を恥じて如何する、私を一番理解し受け入れる事が出来るのは自分しか居ないのだと思わなければ、何も書けなくなるとその時に私は思ったものだったな。


確かにそれでも私も自分の書いたもので間違いがあった場合に突っ込みを入れられれば落ち込む。或いは自分のやっている事を批判されれば傷付きもする。以前はもっとその様なネガティヴな思いは強かったのだが、今は随分と理想の自分に近付いたと思っている。他人がどの様に私を批判しても誤解しても、私が自分を信じていればそれでいい。自分が自分を受け入れ、そしてほんの僅かな人が分かって下さればそれでいいと。


 「すごい」も大切な言葉だと思うんですよ。でも本当にいいなと思ったもの、それを書いた人に「すごい」と書いてしまったら、「『すごい』スーツ」を着込んで自分の位置から動けず、海にぶくぶく沈んでしまう気がしました。
 それならいっそ全部脱ぎ捨てて、大海原に飛び込む冒険者になろう。


氏も後戯仲間になるか?(笑)


思えば氏のこの記事は「すごい」の延長線であるよな。これこそ後戯仲間とも言えると私は思ったのだが、矢張り後戯仲間は恥ずかしいと思われるのだろうか。
裸と裸の付き合いも良いものだ。私は外から戻って一番にする行為が服を脱ぎ捨てる事であるが、服を脱ぎ捨て水に飛び込むのも好きだ。水に身を委ねて漂い、耳をすませては遠くの漣を聞くのを最も楽しいと思っているよ。