「明日は明日の風が吹く - 何時かは自身を褒める時が来ればいい(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園)」を読んで。
yas-toro氏が「書きたい事」があって、それを書いている事が多いと書いているのだが、私の場合はどうだろうと考えてみた。どうやら、私は書きたい事があって書いているのとは少々違うみたいである。誰かが書いている事を読んでそれに反応して思い起こされる事柄をただ書いているだけのようだ。それは伝えたくない事ではないわけではあるが、どうしても伝えなくてはならないというものでもないはず。では、何故書き続けるのだろう。だがしかし、恐らく、誰も相手にしてくれなくてもこのまま書き続けていくのだろうな。誰かは「楽しいから書き続けている」と言っていたが、確かにそれもあるだろうが、本当に楽しければ何も反応がなくても書き続けられるものなのだろうか。
瓢箪鯰な私は「伝えたい事」とか「本質」をそのまま出すのが恥ずかしかったりする事もあって、隠し気味に書いていた時期もあるしねぇ……それはつまり、今回のこの文章は自己弁護なだけか(笑)。
本質をそのまま出すのは憚られるというのは私も同じだ。本当に伝えたい事の核となるものを私はそのまま正直に言いたくはない。そうか。成る程。それなのかもしれないな。つまり、書きたい事が私にもあって書いているのだ。ただ、私の書き方はそのまま書くのではなく、誰かの記事に便乗して書いているだけに過ぎないのだ。
「伝えたい事」は「書きたい事」の中に含まれているけれど、それだけを書きたい訳では無いし。
そうなると、私は伝えたい事だけを書きたいと思って書いているのかもしれない。誰かの記事に反応せずに自分語りが出来ない私であるから。だから、氏の「それだけを書きたい訳ではない」と言っているようには私には言えないという事だ。私は誰かの書いた記事に反応してしか書きたいと思わない。そして、この後に読んだ小樽氏の「タルタルソースも空を飛ぶ 書けなくするのは自分」を読んで、考えさせられた。
あなたに囲える枠は決まっている
広げることもできますが そうなると枠は細くなり壊れてしまいます
狭めることもできますが 枠が太くなり自分がくるしくなります
いうなれば 粘土でつくった囲い
粘土が増えるまで自分にあった囲いをみつけることこそ
あなたがするべきことだろう
私も「伝えたい」より「見られたい」なのかもしれない。自分で自分の首を絞めているのかもしれない。だが、それでも私はこれでいいと思っているような気がする。それが本音なのだと。もしかしたら一人SMが趣味なのかもしれないな。(笑)
ところでyas-toro氏が書いていた「瓢箪鯰」の読み方も意味も分からなかった。何と読むのだろう。
【追記】yas-toro氏から私信があった。成る程「ひょうたんなまず」か。考えてみたら瓢箪でリンクが貼られていた。飛んでみたら氏の言われている事が書かれてあったよ。(笑)
氏は「とらえどころがない」というイメージは持たなかったがな。それを言うなら私の方こそ「ひょうたんなまず」かもしれない。