愚かな夢を見ている

Twitterに私もアカウントだけは持っている。ほとんど呟くことはないのだが。友人の書いた物を宣伝する目的で始めたようなものだったのだが、その友人も今は現実でそんな暇はないくらいに忙しくしているので、Twitterで宣伝するのもやめたほうがいいのではないかと最近では思い始めている。

 

時折り、Twitterのアカウントを削除してしまった方が良いのではないかという気持ちに駆られることがある。そのTwitterで確かに良い経験をしたこともあるが、逆にTwitter上で人間関係に亀裂が入ってしまった辛い経験もあるのだ。勿論、Twitterのせいにするのはお門違いであることは重々承知している。だがしかし、矢張りどうしても思ってしまうのだ。Twitterで繋がってなければ、もう少し別れの時が伸びたのではないか、と。「スター」をつける「イイネ」をつける「リツイート」をする。そういったアクションがついてなければ、或いは、ただ会話だけを楽しんでいれば、私達の蜜月はもう少しだけ長く続いたのではないのか、と。

 

愚かな夢だ。

 

以前、michiaki氏が「世界は大丈夫だ」という記事でこんなことを書いていた。

 

『以降のぼくの生は残骸だ。余生であって、なくてもいいものだ。』

 

偶然ではあるが、氏のその記事をこの度読み返すことがあり、その時にとある方のTwitterでの呟きに、自分が今生きてるのはおまけの人生であり、もう人生畳むことを考える年齢となったというようなことを書いていたのを見かけた。と同時に、他にも似たようなことを言っていた者がいた事を思い出した。その者は自分は病気で、ある年齢で自分は死ぬのだと思い込んでいたのが、今は元気に暮らしているということで、今の自分はすでに余生なのだと言っていた。

 

私は、そういった考えを間違っているとは思わない。だが、思わないが、もう少し足掻いてもいいのではないかとも思っている。私は此処では自分のプロフィールを提示してはないが、ある程度、長く書き続けているということもあり、もう若くはないと気づいている方々もいると思うので、私も彼等の考えでいけば「余生」とも言うべき日々を生きていると言えよう。だがしかし、「おまけの人生」などという言葉を言えるのは、現実で厳しい日々を暮らしていないからではないかと邪推する。私は決して余生を穏やかに過ごすなどできはしないのだ。それは勿論、自分のせいでもある。こんなはずではなかったとは言いたくはないが、それでもどうしても思ってしまうのだ。

 

「こんなはずではなかった」と。

 

こんな余生を送るはずではなかった。もしかすると私は穏やかに余生を過ごす前に寿命がくるのではないかと最近では思うようになっていった。目の前に立ちはだかる障害物を排除したいと衝動的に思うこともあるが、それは人として決してしてはならないことでもあることはわかっているので、私は日々、救いを求めて足掻き続けているのだ。今はもう励ましの言葉をくれた人も鬼籍に入ってしまったので、私は孤軍奮闘で何とか生きているのだ。

 

それでも誰か言ってほしい。愚かな夢を見続ける私に。「あなたは大丈夫だよ」と。