その淋しさの向こう側には


「こころの風景 言葉は相互理解のためにある」を読んで。


誠意とは何だろう。私は最近「誠意」という言葉があまり好きではなくなってしまった。
他人から見て、私の書くものに誠意が果たして感じられるかどうかも分らない。それよりも「誠意」という意味が分らなくなってしまったようでもある。
広辞苑では誠意とは「私欲を離れ、曲がったところのない心で物事に対する気持ち」と書かれてあったのだが、それで考えると私の書くものは誠意はないのかもしれない。それは何故か。「私欲」という部分である。私の書く物は自分の為に書いているのである。他人の為ではない。誰かの役に立って欲しいとか、誰かの為に書いてはいないので「私欲」と言えないだろうか。
勿論、それは私の書くものがそうであると言っているので、他者が「自分の為に書いている」と言ったとしてもそれは「私欲」とは違うのだが。


ユーモアを交えても軽薄にはせず、自分も他人もおとしめず、扇情的な言葉や侮蔑的な言葉は使わない。つまり真面目な文章を書くということだと考えている。ひとつの言葉にも考慮を重ね、何度も推敲し真摯に表現した文章ならば、たとえ数人にでも私の気持ちや私が考えたことは伝わっていくと信じいる。そしてそんな手応えが、今の私にはある。


筆者は「誠意」を「真面目に書く事」と言っているわけだな。確かにそうだろう。だから、筆者の書いたこの記事はとても誠意が感じられる記事だと私も思った。
だが、私は、軽薄な文章、自分や他人を貶める文章、扇情的な言葉や侮蔑的な言葉などを使って書いている人の記事にも何処かに誠意が感じられないだろうかと思ってしまう。そんな風に読み取ろうとしてしまうのだ。
結果、深読みをし過ぎてしまって相手も自分も傷付けてしまう事になるのだが。そんな私の事を他人は恐らく嘲笑うのだろうな。


言葉は人と人との相互理解のためにある。


それは最もだ。特にネットでは言葉でしか相互理解は出来ない。だが、私は言葉で誤解を招いたとしても、その誤解は解かないままでいたい。誤解されてもその誤解も自分が招いた事である。そこで相手との関係が途切れてしまうとしても、それもまた運命であると思うに至ったのだから。


誤解し、誤解され、それでも繋がる関係に私は憧れる。そんな相手を私は求めている。その為に私は誤解は誤解のままで、その辛さ、寂しさを背負って此の侭でいようと決心したのである。その淋しさの向こう側にその人と手を繋ぐ私を夢見て。