共有は出来ぬがどちらも否定はしない


「Life like a clown - 前提の共有」を読んで。


ネットにおける論争では,中立的な立場にいる審判が存在しないなどの理由で,価値観の異なる二者の議論はあまりうまくいきません.それ故,そういった類の議論はできるだけ避けることも一つの道であると思います.ですが,それでもそのような議論をすることになった場合には,“そんなことは当たり前だ”と思ったときに,一度その“そんなこと”に当たる部分を文章にしてみると良いのでは,と思います.それによって,自分が何を前提しているのかが相手にも伝わり,少しは議論も(良い方向へ)進むかもしれません.


私は今までに論争と呼ばれる状況に自ら飛び込んだ事は無い。多少関わってしまった事もあったが、相手を説得するとか理解して貰うとかの努力はほとんどした事が無いな。議論は私のような馬鹿には向いていないのだ。議論すればするほど、状況は最悪になっていくので、早々に退散するようにしている。だから、どれ程「腰抜け」と言われようが私は議論するつもりは無い。


どちらも間違ってはいない.ただ,前提が共有できていないだけだ.


「当たり前だ」という気持ちが私には分からぬ。私は、全てが「そうなのかもしれない。だが違うのかもしれない。何がそうなのか分からない」という考えの持ち主なのだ。だから気持ちの共有は出来ぬ。よって否定もしない、なのだよ。