時には馬鹿をしてみたいと思う事もある(笑)


「ブログ否定論」を読んで。


まず、この記事の筆者が誰か私には分からなかった。


著作者の重要な情報が欠落してしまう。著作者は自らの情報を名前しか公開していない。これは如何でも良さそうな事ですが、信用と云う点から言えば深刻な問題です。匿名掲示板に書かれた情報を半信半疑で扱う事が余儀なくされるのと同様、書いた記事の内容も信用されなくなる危険性がある。これは私にとっては深刻な問題です。少くとも情報への信頼性は確実に低下します。


筆者ははてなダイアリーでのプロフィールの掲載の事を書いており、他のブログサービスでは著作者の情報が欠落しているブログもあるという事を述べている。だが、筆者はご自分の情報が分かりにくいという事に気付いていないようだ。確かに、書いている者に興味が出れば、どんな人であろうかとプロフィールを探す事も私にはある。閲覧しているページでそれらしきリンクがなかったとしても、調べる方法は無いわけではない。しかし、普通は分かりにくいリンクの仕方をしていたとしたら、わざわざプロフィールを探そうとは思わないだろう。現に、何時もの私なら筆者の名前を探して何々氏と書くべき所を今回は書く気にもならなかった。
恐らく、筆者はご自分の書いたこの記事も、読んでくれた誰かに信用してもらわなくてもいいと思っているのかもしれないな。


制作者にとっては便利だが閲覧者にとっては不便――それが不当である事は明かです。店側が、訪れてくる客の環境を全く考えず、全てをしろうとに任せられるのであれば営業は楽です。しかし、その店は健全者にとっては便利ですが、車椅子に乗った人や松葉杖を突く人にとっては不便。バリアフリーになっていないのです。バリアフリーになっていなくても、殆どの客は健全者であり、健全者さえ確保してしまえば営業に支障を来す事はありません。が、依然にして体に障碍がある人は迫害され続けます。ブログもそれと全く同じ論理で成立っているのです。


筆者はブログを店に例えて言っているが、ブログ運営者はブログ閲覧者から金銭を摂取しているのだろうか。本屋で売られている物なら、買って下さる方に不便にならぬように配慮するのも当たり前であるが、ブログにその例えを持ってくる事は筋違いなような気がする。
確かに、閲覧者に配慮はしたいと私も思う。だが、その配慮は私の場合「文章上の読みやすさ」であって訪れる閲覧者のパソコンの環境まで考えてはいない。尤も、私は既存のテンプレートしか使いこなせないので、このテンプレートも自分の文章の雰囲気に合致するから選んだに過ぎない。だが、それでも読みにくいテンプレートでは無いと自分では思っているのだが。
この筆者の書いたページは、長文が嫌いではない私でさえも非常に読みにくいものだった。デザインがでは無く、文章が私にとっては非常に読みにくかったのである。私はHTMLの事はよく分からない人間でもあるので、恐らく筆者は私という人間は「馬鹿」であり「阿呆」であり「気狂い」とレッテルを貼る事だろう。それは別にいい。確かに私は馬鹿であるのだから。


だがしかし、ざっと読んでみて思った事だが、これはもしかしたら言及される為にわざと挑発的な事を書いているのかもしれないな、と。最近その様な記事をよく見かける。そして、それに私はまんまと嵌ってしまったのかもしれない。それは私の考え過ぎか?(笑)
時には馬鹿をしてみたい事もある。いや、何時もの事か?(笑)