優れているとは如何いう事か


「奥様、鼻毛が出ておりますことよ - 文章の余裕」を読んで。


心動かされた様々な出来事を、私自身も感じたいとは思っているのですが、誰かが「感じた事」は余計な情報に思える事が多いのです。
「思った事」「考えた事」という情報は私の「思った事」「考えた事」に対して補完したり、発想の幅を広げたりと、様々な影響を受けたいとは思っているのですが、他人の「感じた事」は影響を受けたくないというか、どうでもいいというか、そんな気分になってしまうのです。
つまり、心の中のもの(感情など)を文章で表現する事での固定化も嫌だし、その固定化された感情を受け取る事も好かないのです。
ですから、私が好む文章は感情に訴える事に主眼をおいたものよりも、事実を正確に記そうとするようなものや、思考の奥にあるものを探るようなものや、違った立場からのものの見方を見せてくれるよなものだったりします。


つまり、理路整然とした文章が好みだという事か。たとえば、私の書いたものは如何であろうか。私は自身の書く物を事実を正確に記しているとは思えないし、私ほど感情的に文章を書いている者はいないとまでも思っている。誰かが私の書いた物を「理路整然と書いている」と言ったとしたら、その人はそう感じたかもしれないが、私自身は「それは違う」と一応は否定するだろう。


私は誰かが感じた想い、考えた事を知りたい。感じたその気持ちに同調したいと思う人間だ。だから、そういった他人の感じた事に影響されたくないと思う者の気持ちが如何も理解が出来ないようだ。
私はどの様な物でも好んで読んでしまう傾向がある。感情に訴える文章、事実を事実のままに何の工夫も凝らしていない文章、思考の底の探求、違う考え等、私が興味を持つ物であれば、それがどの様な書かれ方であったとしても読んでしまう。


優れた文章にはそういったものを超えた素晴らしさがあるのかもしれませんが、それを求めるよりも、美しい風景を見たり、何気ない日常にある感動などに眼を向けるのに忙しくてたまらないのです。


氏が言う文章が優れた物であるか如何かは分からぬが、氏が、美しい風景を見たり、日常生活で受ける感動の方に興味があるとしたら、それもまた優れた生き方だと思うよ。