子守唄として存在するブログを目指している


「分裂勘違い君劇場 - 分かりやすさよりも正しさよりも学習に必要なものとは何か?」を読んで。


この記事が注目を集めた本当の理由は、
「プロが、楽屋裏で歯に衣着せずホンネを言っている」
かのように見えるからだ。


生々しい現場の空気を伴ったプロのホンネは、高い「ホント感」がある。


私が好んで読んでいるブログの中には、この様に書き手の本音が余す所なく描かれているブログもある。それは確かに刺激的である。怒りだけでなく歓喜に溢れた物、痛々しいくらいの傷みや悲しみに満ちた物、思わず欲情してしまう程にエロティシズムな空間といったような激しい感情を書き綴ったものは退屈など読み手には感じさせない。それはそれで良い事なのだろうが、少なくとも私は好んで読んでいたとしてもそういった物は書くつもりは無い。
そういった刺激的な内容のものが多くの人に求められているからこそ注目を浴びるのであろうし、注目を浴びてアクセスを増やしたいと思うのなら参考にすれば良いのだが、全ての人間が刺激的なものを求めている訳ではないだろう。たとえ刺激的なものを求めている者であっても、時には落ち着ける空間を求める事はあるはずだ。私は此処をそういった静かに過ごせる場所にしたいと思っている。


学習や啓蒙に第一に必要とされるのは、たんなる知識の解説ではない。
その事柄についてより注意深く考えてみたいと思わせるための、感情の刺激であり、動機付けなのだ。
それについて、「より深く知りたい」という、感情をかき立てられてはじめて、人々は、そのための「分かりやすい解説」を求めるようになる。「分かりやすさ」や「正確さ」はあくまで、感情が十分に刺激された後に来てはじめて意味があるものであって、感情の刺激のないところに、分かりやすく、正しい解説をいくら重ねても、眠くなるだけなのだ。


私は啓蒙などというものには興味がないので刺激的なものを書く気はない。そういった刺激的な読み物は他の方々が書いて下さるので、私は読み手として大いに楽しませて頂く。
私は、此処を読んだ方々が、私の書いた子守唄のような記事で眠くなり安らかに眠って下さればしてやったりと思う事だろう。そういったブログを目指している。