意味が有る無いかを決めるのは何時でも自分自身だ


「タルタルソースも空を飛ぶ意味のない記事」を読んで。


 ブログってのはさ、情報を発信する場ではないと思う。いや、なんでもいいから情報を提供するっていう意味では情報を発信する場であるのかもしれないけど、あんまりブログを情報を発信する場として考えたくはない。


情報を「情報 - Wikipedia」で読んでみた。それによると「情報とは、事象、事物、過程、事実などの対象について知りえたことで、概念を含んでおり、一定の文脈の中において特定の意味をもつもの。意味のあるデータ。」と書かれてある。
ところが、私が持っている辞典では「事情・状況などの報告。事件のようすの知らせ。判断の材料としてあたえられる種々の資料や知識」と書かれてあった。
小樽氏の言われているように、ブログとは人の頭の中身ではないかという捉え方で考えれば「事情・状況などの報告」と同義であるように私には思える。そして、そういったものを「意味のないもの」と考える人は確かに存在するのだろうが、私は意味の無いものなど無い、或いは、意味の無いものも意味が有るのではないかという考えを持っている。


自分の書いたものに検索で辿り着いてもらっても何の役にも立っていないのではないかと恐縮している方がいたが、私はそうは思わないよ。確かにどうにかしたくて切実に情報を求めている者にとってはそこに書かれているものが「意味の無い駄文」であったのなら「そんなものを書くな」となるかもしれないが、他の誰かにとっては、それを書いた人の人柄がその記事から窺うことが出来て、その人にとっては情報源となるわけだ。だから、全く意味の無い記事というものは無いんじゃないかな。
無断リンク禁止を掲げて一見無駄なことをしているように見えても、そういう無断リンクを禁止したがる人間もいるのだという情報が分かるわけであるし、矢張り無駄なことなど無いように私には思える。


 さあ、こんな意味のない記事を読んでくれた君に問いたい、あなたにとって身近なもの、その意味はなんですか?


意味の無い記事、か。私にこの記事を書かせた事で、氏の記事は少なくとも私にとっては意味の無い記事では無いと思うよ。
という事で、答えてみよう。私にとって身近なもの、このブログを更新すること、その意味は「楽しむ為」だね。楽しむ事は大切だ。私にとって人生のテーマは「楽しむ事」なのだから。
私はこのブログを書く事によって毎日が楽しい。此処でこうやって書くようになって良かったと思っている。この行為が他人の為になっていなくても、私自身の為になっていると思う事はとても幸せな事なのだと。そして、私のこの記事も他人にとっては意味の無い記事だろう。だが、私にとってはとても重要な意味を持つ。つまり、意味が有るか無いかを決めるのは何時でも自分自身という事だ。だから、意味の無い物は無い。そういうものだと私は思うよ。