私の姿が見えますか?


「F's Garage:ネットに出す自分と日常の自分」を読んで。


私はポジティヴな自分もネガティヴな自分も出来れば見せたくないと思っている。
それは現実で生活をしている自分もネットでの私という存在でもそうありたいと思っているのだ。
勿論、人間であるから、時としてネガティヴな想いに囚われる事もあるし、他人の言葉に癒されてポジティヴな気持ちになる事もあるのだが、それを殊更に他人に見せたいと今は思っていない。
結果、今の私は落ち着いているという印象を他人に抱かせている事だろう。


どうにもならない事を他人に話した所でどうにもならないという考えに到達した私である。


かつての私も人並みにネガティヴな面を吐き出しては他人に聞いてもらう事もしていた。それで癒される事もあり、抜け出せなくなった時期もある。人は優しい。優しいから私に声をかけてくれる。そして、それで癒されたものだ。それは間違いない。だが、それと同時にトラブルに発展する事も多々あり、そのトラブルから再び私は吐き出す事をし、更にそれがトラブルへと発展していく。堂々巡りだ。誰かがそれを止めなければならない。それを止めるのは私しかいないのだ。


blogを始める遥か昔から自分の考えを整理するために、こうやってきたので今更変えられないんですが、blogやmixiが現実世界と近くなってきて、自己評価がネットと連動してしまうとなると、これを人に向けて出すことってどうなんだろうって思い始めてきました。開き直ってますけど。


此処での私と現実の私は今まで他人に見せていた自分より一番現実の私に近いと私は思っている。ただ、現実に近いとは言え、此処で正直な気持ちを書いているように対象に対しての正直な思いというものを現実でも言っているかと言えば、それは違うのであるが。正直な感想というものは時に要らぬ諍いに発展する場合もある。
それは感情のある人間相手であるから仕方ない事でもあるよな。私自身も私に向けられた相手のネガティヴな評価というものに嫌悪感を感じる事もあるわけであるし。それはもう如何し様も無い事だ。ただ、それをそのまま吐き出す事はしたくない。だから私はスルーする事を覚えた。


だが、それは他人に私を良く見せようとしてと言う訳ではない。兎に角、嫌悪感を感じた事で様々に湧き上がってくるネガティヴな思いを吐き出したいという無駄な事を今はしている時間がないというだけに過ぎない。


そんな私は、誰かの目にどの様に映っているのだろうか。気にしているという訳でもないが、多少の興味はあったりするな。