全ては己が為


「シロクマの屑籠(汎適所属) - 誰が為のウェブサイト、誰が為のコミュニケーション」を読んで。


 他人に知覚され判断の対象となり得る全行動を「コミュニケーション」と規定する私にとって、ウェブサイト/ブログ上にテキストを(概ね一方向的に)書き連ねる行為もまた、当然「コミュニケーション」としても認識されるものだ。何をどう影響するかはともかくとして、私が書いた文章&誰かが書いた文章は、読み手によって評価されたり、読み手に対して零〜甚大までの範囲において影響を与える可能性を孕んでいる。


成る程、直接的に接触をせずとも、書く事、そしてそれを読む事もまたコミュニケーションという事か。それはコメントを互いにしなくてもコミュニケーションであるという事なのかな。そういう事もまた交流であるのだと、以前にも誰かが言っていたような気がする。


私は誰かに影響を与えるつもりなど全く考えずに此処でブログを書くようになった。ただ書きたいと思ったものを書きたいが為に、それだけの為に書き出したわけであるが、こうやって不特定多数に読まれる事を考えて書いてもいる。だから、全く読者の事を考えてないという訳ではないのだが、読者が読みたいと思っているものを書くつもりもない。私は私が興味を持つ事しか書けないのだから。読まれたい為に書くつもりはないのだ。たまたま興味があった話題が、巷で騒がれている話題であれば書く事もあるだろう。その時は大勢の者が私の記事を読むだろうし、はてなブックマークでもブクマされる事もあるかもしれない。或いは私の記事を読んで触発されて何か書き、トラックバックを送ってくる事もあるだろうな。今の私はその様なコミュニケーションが心地よい。此処でブログを書くようになって、毎日が楽しいと思えてきている。


 この、書きたい放題による『書き手→読み手関係』規定法は、コミュニケーションの手法としては荒っぽく、読む人が誰もいなくなってしまうリスク・読む人に罵倒されるリスクを負ってはいるが、一方で、比較的書きたい放題に近い、肩の力を抜いた書き込みをダラダラ続けるには向いていると信じている。


書きたい放題という定義が私にはよく分からないので、私のこのブログも私にとっては「書きたい放題をしている」と言えるのだ。だが、読む人は誰もいなくなる気配は無いし、罵倒もされないと私は思っている。読む人が誰もいなくなるかどうかは、アクセス解析を付けていないのではっきりと断言は出来ないのだが、それでも多くは無くとも少ないながらもアンテナに入れて読んでくださっている方がいるという事も分かっているから言える事だ。
罵倒についても、何処か知らぬ場所で罵倒されていない限り、取り敢えずは私の記事で罵倒してくる輩もいないだろう。得てして罵倒は罵倒で書かれたものに引き寄せられるように思えるからだ。私の書いたものならば、罵倒よりも嫌味系統のコメントが寄せられる確立は高いだろうな。(笑)


以前にも書いた覚えがあるが、結局は私は誰かの為に書いている訳ではなく、己が為に書いているという事なのだな。そして、たまたまそれを読んで下さった誰かが何かを感じてくれたらそれでいい。それが否定であっても肯定であっても、何かを感じたという事が大切な事なのだ。私にとっても、そしてその何かを感じたその人にとっても。つまり、私は誰かに何かを感じさせるものを書いたという事、誰かは私の書いたもので何かを感じる事が出来たという事、それが有意義なコミュニケーションが構築されたのだという事にはならないだろうか?