単純な人間など何処にもいないのではないか?


「あんたジャージでどこ行くの ululunに言われて気付く」を読んで。


私も筆者の事を「人間関係が希薄」だのとレッテル貼りをしていたわけだが、私自身は他人に「あなたはこうですね」とレッテルをはられても今は気にはしない。
全く気にしない訳ではないが、私の書くものでそう感じたのなら、私はそう感じさせるものしか書けていないという事に他ならないからだ。
他人の気質を100%理解できる事はないわけであるから、どうしたって書かれているものだけで相手の本質など見抜けるものではない。そして、書いている此方側も相手に対して100%理解して貰えるものを書けるわけもない。だから、決め付けられてむかつくというのもおかしな話なのだ。それは決め付けられてしまうようなものを書いている此方の落ち度でもあるのだから。
勿論、決め付けられたものではなく、その決め付けるという行為自体がむかつくというのもあるだろう。だからその行為でむかつく事はおかしな話ではないわけなのだが。


誰だって、自分だけは複雑な存在なんだと思い込みたがる物なのです。反対に、他人のことは「単純で決めつけ可能な存在」だと思う傲慢。


私も自分が複雑な人間なのだと思っていた時期がある。だがそれは違っていた。それもまた私の思い込みだったのだ。私は誰よりも単純な人間であると今は思っている。
だが、その単純な私を複数の他人は「こうである」と「ああである」と「そうである」と色々な「私」を提示してくる時がある。それは此処ではない別の場所で今まで書いてきた日記を読んだ人の感想であるが。
そこで思ったのだが、例えば此処で書いているもので誰かが私を「こんな人だ」と評したとしても、他の誰かは「いや、この人はこうだ」と別の私を評する事もあるだろう。人が違えば決め付けも違ってくるものなんじゃないかな。そうであれば、決め付けられてもその決め付けが一つでなければ複数の決め付けが全て自分を表しているという事になりはしないか。つまり、複数の決め付けが多ければ多いほど、それは複雑となりはしないか。


それを複雑な人間と言うとしたら、単純な人間など何処にもいない。そんな風に思えてきたよ。