死に物狂いでやってやる


「404 Blog Not Foundはてなに入りたくても入れないみなさんへ#2」を読んで。


自分が最近になってやっと「はてな」を利用するようになったものだから、今更ながら「はてな」関連の記事に注目したわけで、そこで出会ったこの記事。順番としては最初のエントリから読むべきだとは思ったが、そこをあえてこのエントリから読んでみた。


はてなについては、今までの私は利用しようなどとは思いもしなかった。よく読みに行っているブログのブロガーたちのほとんどがはてなを利用している事は知っていたし、はてなブックマークのコメントを使って互いにいい距離でのコミュニケーションをしているのを見ては「面白そうだな」と感じていた私である。


記事にも書かれているように、確かに私が入らなくても「はてな」には何の影響もないし、私などが「はてな」で必要とされる事は決してないと思っていた。それは「はてな」を利用しだした今でも思ってる。
ただ、私は「必要とされようとする」事を傲慢であるとは思わない。「必要とされたい」と思う事は誰でもが持っている欲求だと思っているから。それを無理に押し込めなくてもいいじゃないか。


全力を出す、というのは、そういうことなのです。「どうせ自分なんて」という考えが沸き上がる暇と酸素を脳に与えない事なのです。「自分」という言葉が脳裡に浮かんだら、あなたはまだ全力を出していないのです。
筆者のこの文章を読んで私は他の事を思い出していた。
私は最近、徹底的に凹むような出来事があった。自分がここまで馬鹿なんだ、生きていく価値もないという所まで落ち込んだ。
だが、その気持ちに囚われる前、失敗する前までは自分は自分なりに全力でやっていたのだ。それは思い込みだったかもしれない。全力でやったからといっても結果が失敗であったわけで、その全力は本当の全力ではなかったのだ。
だがしかし、その失敗は取り返しのつかない物ではなかった。関係者には少なからず迷惑をかけてしまったが、まだましな状況だった。
その「ましな状況だった」という事に注目して、次からはもっと慎重に対処すればいいのだ。そんな風に思えるようになった。


「どうせ自分なんて」と考えているときの自分は、実は自分ではなく、他人の立ち振る舞いから自分が多分他人からはこう見えているということを憶測しているに過ぎないのです。どうせ自分なんて、というのはとっても利己主義的に見えて、実はその意味で脳内の自分という他人の人生をなぞっているに過ぎないのです。

あわてて死に飛び乗る前に、死にものぐるいで何かをやってみてからでもいいのではないのでしょうか。

Dan the Accidental Tourist

失敗したからといって、慌てて死に飛び乗ることはしない私だが、悪戯に「死にたい」と死ねないくせに思ってしまうのである。それも愚かな事なんだが、これから死にたくなるような失敗をしたとしても、もう死にたいとは思わなくなるだろう、恐らく。


決定的に「死ね」(もしくは、それと同義の言葉)を宣告されるまでは、自分が出来る「死に物狂い」をやってみよう。やってみる。やってやる。