矛盾を受け入れた時から生き易くなった


「勝ち猫 もちの マターリぶろぐ またーりしようよ’アニメは愛に溢れていた。」を読んで。


 わたしは、大人が子どものために作ってくれた矛盾だらけ・隙だらけのアニメが好きだったんだ。物語の世界にどこからでもすっと入って、さっとぬけることが出来る。自分が違うと思ったところをばかにして、そうすることで大人より偉くなったと感じられる。その甘い世界。


隙間だらけで不完全で矛盾に満ちた世界。


あれは、この世の縮図だったのだ。


私も矛盾に満ちた世界が好きである。隙があり不完全な人間も好きである。だが、子供の頃はそれが許せなかった。全てに完全を求め、矛盾は絶対に受け入れられない子供だったのだ。
しかし、子供は矛盾の塊だ。私は私の理想と自分の矛盾に苛まれ、苦しみと辛さを味わった。しかし、私はいい加減で面倒臭がりな性格でもあったので、ギリギリの極限状態で全て放棄してしまっていたから何とか生きていけたのだろう。
大人になった今では、自分がどの様な人間であるかを充分過ぎる程に理解しているので、自分の中の矛盾を受け入れられるようになった。


motimoti3氏の言われている「自分が違うと思ったところをばかにして、そうすることで大人より偉くなったと感じられる。」というのも恐らく当時の私と同じような理由からだったのではないかと思う。
私も自分以外を全て馬鹿にしていたようだ。そして、自分は違うのだ、誰とも全く違う存在なのだと傲慢な事を考えていたようだ。それが子供という者なのだろう。私の子供の頃は、そんな子供が多かった気がする。
だが、今の子供は如何だろうか。統計を取ってみた訳ではないので滅多な事は言えぬと思うが、それでも私の印象ではそんな傲慢な子供は余りいないように思う。と言うか、私の子供の頃のような適度に傲慢な子供ではなく、異常なくらいに傲慢な子供か、異常なくらいに卑屈な子供の両極端しかいないようにも私には思えるのだが。考え過ぎだろうか?