此れが私のコミュニケーションになるのかな


「きらきら、ぶつぶつ - ネットのコミュニケーション」を読んで。


 ネットでもコミュニケーションの基本は実生活とは変わらないとは思います。だけど、自分の考えを述べ、他人がそれに言及するという行為を含んだコミュニケーションは、背負う柵がない、ネット以外での相手のことが見えてこないから気軽にできることなのかもしれない。柵を感じずにお互いが「意見を言い合い、言及する」という行為が成立するネットの世界は、実はとても貴重な世界なのかもしれないと最近思うようになりました。


私は誰かが書いたものを好きに言及したいと思っている。だが、今まで私が誰かが書いたもので「こう思う」などといった書き方をしていたのを、ほとんどの者が不快に思ったようだった。此処で書いているような取り上げ方とは少々違う取り上げ方だったせいでもある。
どのような書き方であったかというのは、私にとってそう感じられるという事であるので他人にとっては同じように取られるかもしれないが、私は感情的な文章を書いていたからだ。
取り様によっては、此処で書いている私の文章も感情的だと感じる方もいるかと思う。だが、此れでもかなり抑えて書いているつもりだ。とは言え、自分ではこのような書き方が苦痛であるとは思っていない。ごく自然に文章を紡いでいるつもりだ。


私は挨拶だけのコメントは好きではない。好きではないが挨拶だけしかコメントを付けようがない場合もある事は分っているつもりだ。
つまり、コメントが全くつかないと、本当に誰か読んでくれているのだろうかと疑心暗鬼に囚われるからであり、一言でも「読みました」とコメントがついていれば安堵するのではないかなと思ったからである。
勿論、これはただの憶測でしかない。
ただ、私も挨拶だけでは嫌だと思っていても、流石に何もコメントが付かないと、自分の書いたものは誰の興味も引かなかったのだなと落ち込んだものだったので、他の人もそう思う人はいるのではないかと思ったに過ぎない。
それもあって、以前は何も発展的なコメントが付けられない場合に限り、挨拶と共に「読みました」という一言を残したものだったな。しかし、それ以外では結構な長文コメントを残したものだったから、私が興味を持ったか持たなかったかはそのコメントで分ったはずだ。最もそこまで私に関心がある人間もいなかったと思うが。


今の私はコメントが付かなくても傷付く事もない。此処で言えばブログに付属のコメントではなく、はてなブックマークでのコメントという事になるが。だがしかし、傷付く事はないが、正直気にはしているのだ。多少は気にしないと他人に読ませるようなものは書けないと思うからね。