変わっていく文章


「明日は明日の風が吹く - 取り上げられ言及される事の喜び(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園)」を読んで。


筆者は自分を群れていないが羊のようだと言い、ネットでのトラブルは怖いから近付かないようにしているようだが、私もネットでのトラブルは怖いと思っていたのだろうかとふと考えてみた。すると、怖いという思いではなく、どうやらただ単に面倒臭いと思っているだけに過ぎないのかもしれないと気付いた。
2chも時々は覗いてはいたが、私も書き込みはした事が無い。恐らく書き込みをしたらはまってしまうのじゃないかな。
その根拠は、ネットを始めた頃は趣味の話が出来る掲示板には毎日訪れて書き込みをしていたからだと思う。後、大勢訪れる掲示板だと即レスが付きやすいというのもある。反応を貰える事は書き込みをする意欲にも繋がるからだ。
そういう事で、私は2chに対して恐怖感を抱いているわけではない。嫌な気持ちになる板もあるが、それだけの場所でも無いわけであるから。ただ、今は精力的に書き込みが出来る時間も精神的ゆとりも無いから書き込まないだけの事だ。


筆者は知り合いを切り捨てていた時期があったという事だが、私も何度もそれをやってきたよ。だが、中には切り捨てても切り捨てても食らい付いてくる人もいたな。人はそういう人間に対して如何いう気持ちを持つのだろうか。矢張り「うざったらしい」と思うのだろうか。しかし、私はそういう意地でも食らい付いてくる人に妙な愛しさを感じてしまったりするのだ。私にはそんな風にして纏わり付いてくる人がいる。


 それでも、根本的にはコミュニケーションが好きで、こうやって書き続けている。そしてブログで更にそのコミュニケーションが取り易くなり、それまで以上に書くようになった。そして楽しいと思い、現在ではこれが一番の趣味になっている。


楽しく感じる事が一番だと思う。楽しければ何事も続くものだ。筆者が毎日他人の記事を紹介しては感想を書き続けているのも楽しいから続けているわけだろう?
それは私にも言える事だ。今の私は此処で書く事が一番楽しい。それは矢張り誰かの反応が貰えるからなのだな。
筆者は、私がかつて日常的な話題を書いていたと聞き「そういう話題で色々書かれた文章も読んでみたいなぁ……と思ったので。」と言ってくれたが、そういう文章を書いていた頃は、ここまで誰かが私の書くものに反応してくれることはかった。
恐らく今書いたとしてもほとんどの人がスルーするだろう。やってみなくては分らないじゃないかと言う人もいるかもしれないが、やってみた結果、もう書かないと決めたのだ。
私もある程度の長きに渡って日常的な日記を書き続けてきたものだったが、私の場合はその変わりようが詰まらないものに変わっていったのだな。だからこそ誰も私の書くものに反応しなくなっていったのだ。
そういう事もあって、私は今のこの文章に落ち着いた。こうやって誰かが私の書くものに反応してくれるという事はこれで良かったのだなと思っているよ。