書く行為は病(闇)を表面化する作業でもあるのだ


「酔っ払いのため息 - なんでだろ、はてなの中を覗き見していると、病んだ人の記事にばかり当たる。」を読んで。


「自分なんか」という気持ちは私も持った事がある。それを持った事が無い人というのは本当に存在するのだろうか。その気持ちが強いか弱いかの差だけであり、持った事が無い人はいないのだと私は思うよ。恐らく、持った事など無いと言われる人も自覚が無いだけであり、心の奥底では「自分なんか」という気持ちを抱いているものだろうな。
書くという行為は、確証は無いのだが、その「自分なんか」というドロドロとした思いを表面化させる作業になってしまう可能性を秘めた行為なのだろう。勿論、それだけでなく、書く事で繋がりが出来たり、素晴らしい世界が開けたりもするのだが、如何しても病んだものばかりが注目されてしまうのではないかな。


私は、今は随分と「自分なんか」という気持ちは薄らいできたようだ。結局はどういった文体で書こうが、それぞれの文体にはそれぞれの別の人間が付いて下さるというだけであり、全ては私自身なのである。それを此方の私にはついてくれるのに其方の私にはついて下さらないと不満に思う事自体が可笑しな事なのだ。それで「自分なんか」と思う事は余りにも滑稽だ。馬鹿馬鹿しい。あらゆる見せ方が出来るという事をもっと誇りに思うがいい。全ての人間には多かれ少なかれ病(闇)があるのだ。多少の病んだ所はあるとはいえ、私はそれ程酷い病み方ではないのだ。


と、hari-tokage氏の言いたい事とは全く無縁な記事を書いてしまった。これこそ言及とは言えぬ記事だよな。この様な記事をトラックバックした場合は即刻削除の運命になるだろう。矢張り、私はトラックバックは此れからもしない方がいい。(苦笑)


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【追記】
「まなめはうす」のまなめ氏よりコメントを頂く。


病を書き出している記事は、私はここで紹介せずに直接コメントすることが多いのですが、やっぱりそれなりに多いですね。ただ、書く事で満足せずに解決まで望んでしまう私は理系人間ですか?w


病の記事には直接コメントをするという氏であるが、それは確かに一番好ましい行為であると私も思う。私も何故かそういった方の日記を読む事が多く、以前はよくコメントを残していたものだったが、私は如何しても引き摺られる性質でもあるらしいので、今ではほとんどコメントを残せなくなってしまった。恐らく、氏のように「解決しよう」という意思が、私には無いからなのかもしれない。私も書く事で満足してしまうタイプであるので、この様な私では相手と一緒にどんどん沈んでいってしまい、互いに病(闇)から抜け出せなくなるような気がするのだ。
だが、如何だろう。本当に病んでいる人には解決まで持っていこうとする理系タイプの人間が相談に乗るのがいいのだろうか。私は心理学者でも何でも無いので、そこ等辺の事は滅多な事は言えないな。