私の文章に鎮静効果が本当にあるのだろうか?


「で、みちアキはどうするの? 似た人を好む」を読んで。


「そんな矛盾の塊の私にあなたは会いたいと思うのか?」という私の問いかけに筆者はこう答えて下さった。


矛盾の塊のような人のほうがそそられるものではないですか?


確かに。考えてみれば、私もそういった矛盾の塊に惹かれる人間だった。だが、それも人による。矛盾している人でも嫌悪しか感じない者もいる。惹かれて惹かれて如何しようもない人もいる。その差は一体何だろうとよく考える。だが答えは未だに見つからない。


ところで筆者は私をこう評価して下さった。


奇妙に安定感を持つ、何について書いても本人がより前に出てる、なんだか鎮静効果のある文体だなぁと思う。


奇妙な安定感。ただ普通に安定感とだけ書くのではなく、そこに「奇妙な」という文字が付くのが嬉しい。それにしても、鎮静効果があると言って下さっているが「何について書いても本人が前に出てる」という文体というものに鎮静効果があるようには私には思えないのだが。筆者も不思議な事を仰る。
普通ならば「本人が前に出る」という物は鼻に付くものではないのだろうか?
それが鎮静効果があるという、その理由が私には分らない。
だがしかし、ここに一つの楽曲がある。その楽曲は私から見ても他者から見てもとても我が強いものであり、それを創り出した人物を嫌っている人間はその傲慢さを嫌がっているのだが、私にとってはその我の強さが好みであり、そして、その人物の創り出した楽曲に癒されるのだ。つまり私にとっての鎮静効果はその人物の我の強さであるとも言える。それと筆者の言う鎮静効果が同じか如何かは分らないが。


ともあれ、私の文章を好きであると言って下さって有難う。期待に添えるか如何かは分らないが、此れからもどうぞ宜しく。


【追記】自分の考えを自分の代わりに考えてくれている、か。そんな事を昔言ってくれた人がいたな。だが、こんな私の書くものでもそう言って貰えるのは嬉しい。そう思っているよ。有難う。