何故かどうしても読みたくなる長文があるのだ


「『斬(ざん)』:長文読めない症候群」を読んで。


私は長文を読むのが好きであるが、長文でも自分にとって面白みが感じられなければ読むのは苦痛である事は長文が読めない人たちと変わりはない。つまり、長文全てが好きというわけではなく、あくまでもこのまま読み続けたいと思う長文を読むのが好きなのである。


はてなブックマークなどで、多くのUser数を獲得している記事でも、長文の場合は、まさに「後で読む」状態な場合が多い。


私も皆さんと同様、長文を読む時間が無限にあるわけではない。だから、URLを控えて置いて後で時間が出来た時に読むようにしている。筆者は長文でも読める記事の理由を考えているようだが結局は結論は出ていないらしい。
それでも文字数などを読みやすさに挙げているが、他の者はどうあれ、私は文字数は関係ない。後、コメントでも他の方が「改行や章立ての有無」を挙げているようだが、私に限り、そのようなものがなくても読みたいと思えば気にせずに読んでしまうのだ。


斜め読みして「イイ記事」だと思っても、どうも読めないときが増えた。


此れは完全に私見なのだが、良い記事だと思っても読めないのなら、それは良い記事ではないのではないか。勿論、読む時間や精神的余裕が無く読めないという事はこの際考えに入れずに言うのであるが。私にとっての良い記事は、読む時間が無くてもどうしても読みたくなる記事、読めない精神状態でも読みたくなる記事が良い記事であり、そこには文字数や改行章立てなど関係ない。そこに書かれた物の私を引き込む強烈なオーラ、別の言い方をすれば自意識の塊が私を読まざるを得ない状況へと駆り立てる。


結局は、読みたくなるオーラという物は人それぞれという事になるわけで、私が「此れを読みたい」と思っても他人にはただの苦痛としか感じられない事が多いのではあるが。
しかし、筆者もコメントで「良記事で取り上げていて、読む価値が初めから高そうな場合は、長文でも読む率が高いですが。」と言っているわけであるから、矢張り一人一人の長文に対する着眼点は違うという事なのだろう。