「ハレ」の確認にはアクセス解析を


「ディープ素人 - ブログにおけるケとハレ」を読んで。


私が通い続けている幾つかの人気ブログも、過去ログを読んでみれば初期の頃は閑古鳥が鳴いていたというブログがほとんどだ。それはそうだろう。ブログを開設したその日から多くの人間が訪れるはずもない。いや、そのブログサービスの新着として上がるわけであるから、全く訪れないという事もないのだろうが、最初からコメントが付くという事もそれ程多いという事もないだろう。だから、最初から人気ブログという物はないわけだ。


なので、僕が予想するに、たぶん、ホントにたぶんですよ、人気サイトっつうのはそーゆうハレによって客を呼び、ケによって繋ぎ止めることが出来たサイトだと思うわけです。だから、来客数の数をグラフにしたら、ハレでガッとあがって(ハレ期間)、ちょと下がり気味になって(ケ期間)またガッとあがって少し下がってを繰り返す非線形的な増加を辿ってるのではないでしょうか?


そのブログにアクセス解析が付いていれば、その「ハレ」を確認する事も出来るのだろうが、アクセス解析が付いていないブログであったらどういった記事が「ハレ」であるのかも分らないわけだ。アクセスを増やしたい、人気ブログにしたいと思うなら、矢張りアクセス解析は付けてみるべきだな。だが、そのせいで見たくない物まで見てしまう危険性もあるのである程度の覚悟は必要であるが。
私のブログにはアクセス解析は付いていない。付けるつもりも無い。私のブログは「ハレ」の状態になる事も無いのでは無いかな。


それにしても、筆者のプロフィールには興味を持った。私と同じでトラックバックの送り方が分らないらしい。お仲間で嬉しい。(笑)

「あちらの世界」を開く扉としての漫画


「上がり目なし 山田花子「自殺直前日記の衝撃」その2」を読んで。


漫画が現実からの逃避場所ではないというのもありだろうが、私は筆者と同じで漫画は現実からの逃避場所だった。だったという過去形なのは、今は漫画は現実からの逃避場所ではないからなのだ。私は最近の漫画はそれほど興味が持てない。幾つか試しに読んでみたものだったがどうしても読み続ける事は出来なかった。それらは私に現実からの逃避をさせてくれる空間を提供してはくれなかったのだ。


 さて僕は40近くになった今でも、毎週「刃牙」とか「ハンター×ハンター」といった漫画を読むことを、心から楽しみにしているような人間だ。上記の庵野監督の言葉でいえば、まさにマンガを現実からの逃避場所としていて、それで満足しているような人間なわけだ。これは確かに悲しい生き方には違いないだろうとは思う。現実世界での不全感とか空虚さを漫画という虚構の世界で補完してしているわけだから。(もちろん漫画というジャンルはそんな脆弱なものでないことは言うまでもないことだし、またある程度の強度を備えた作品でないと逃避場所にもならないということもある)だけど現実の憂さを、ほんの束の間だけでも忘れさせてくれるというのは漫画のとても大切な役割であるとは思うんだけども。


私には筆者の「現実の憂いさを、ほんの束の間だけでも忘れさせてくれる漫画」の役割は大切であると言っている事と、引用している「読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる。そういった力が湧いて来るマンガ」は同じようなものだと思ったのだが。
束の間忘れさせてくれ、そしてまた現実へと戻っていく。それが漫画の存在意義である事は私も思っている。それは別に内側にこもる事ではないはずだ。だから、筆者も庵野監督も同じような事を言っていると私は思った。違うのだろうか?


確かに昔私が読んでいた漫画は現実を忘れさせてくれた。私もそのおかげで此処まで生きてこれたのだ。だが、昔の漫画には現実を忘れさせるだけでなくもう一つの魔力を持っていた。己も今読んでいる漫画世界の住人であるのだと、読んでいる者に思わせてしまう魔力が。私は「あちらの世界」には行く事は出来なかったが、たとえそれが激しい思い込みの産物だったとしても、その本人は確実に「あちらの世界」に迷い込んでしまった者もいたに違いない。今の漫画にそれだけの魔力があるようには私には思えない。


だが、私はそんな魔力を持つ漫画が愛しくてたまらない。何時か、私も「あちらの世界」に入ってしまいたいと思うほどに。