不死とはごく一部の選ばれた人間(言葉)のもの


「404 Blog Not Found:言葉は死なない - 書評 - 個独のブログ/伊藤計劃記録」を読んで。


不思議だ。dankogai氏のような聡明な者であっても「言葉は不死化する」という事を今まで感じなかったというのは。私はそれこそ小学生の頃から言葉は死なぬと思いつつ生きてきた。勿論、書き付けなかった言葉たちは確かに私の記憶から消えていっただろう。だが、私の記憶から消えていても、当時知り合った者達の心には残った記憶もある。それを何年も経ってから思い知らされた事もあったな。そして、その言葉はその人の心から一生消えないのだと痛感したものだった。

一時期はそれを恐ろしいと思ったものだ。そして、何も書き残さぬ方が良いのかもしれぬと苦悩したものだ。

私にもウェブ上で知り合って言葉を交わしたある人が突然死んでしまったことがある。その人の書いたコメントは今でも掲示板上に残されており、時折りその言葉を見ては胸に痛みが走る事もある。その人は二度とここに書き込みすることはないのだ、あの楽しかった日々はもう戻らないのだと、胸にこみ上げてくるものもある。この人は自分が死んでしまうことなど露ほども考えていなかった筈だ。だが、死んでしまった。その人はもうこの世のどこにもいない。まだ若かったし、子供もまだ幼く、これからという人だった。病気がちであったならば、多少は己の死の事も考えて生きてきたかもしれないが、恐らくその人は考えたことも無かったのではないか。尤も、これは私の想像でしかないが。そういった話は交わしたことは無かったからな。

私は幼い頃から死と隣り合わせで生きてきたので、毎日書き連ねる日記での言葉は遺言として書いてきたものだった。たとえそれはウェブ上に移ったとしても、もしかしたら今夜眠りに付いたら二度と目覚めず、永遠に夢の中で生き続けてしまうのかもしれないと思いつつ。

だから、夢は悪夢でないことを祈りながら私は毎夜眠りにつく。


それにしても、dankogai氏は気づいていないのだろうか。紹介された二人の人物は巷でも有名な者達であったから書籍化されたわけで、たとえば私のような有名でも何でもない者が書いたこのブログ記事などが私の死で書籍化されて残されるということもないだろうに。手書きで残しているとなれば少々事情は変わってはくるだろうが、紙媒体であっても形あるもの、いずれは消えていく。今から何百年先にはかなりの有名人でない限りは、ウェブだろうが紙媒体であろうが消えてなくなっていくだろう。それを不死と呼べるのだろうか?


ショパン生誕200年ということだ。私たちのどれほどがショパンのように200年後も「こういう人だったのだ」と言われたり、書いたものが200年後も残っているのだろうか。不死とは矢張り選ばれたごく一部の人間の特権なのだと思うよ。そして、それは間違いなく私には訪れない特権だ。